そんな夫を、濃姫も暫らく黙視していたが
そんな夫を、濃姫も暫らく黙視していたが
「……承知致しました。ではまた、殿のご機嫌がよろしい時にお伺いすることに致しましょう」
と、今宵のところは素直に引き下がることにした。
諦めもあったが、信長の気持ちを忖度するよう三保野を窘めた自分が、執拗に問い質すのも可笑しかろう。
濃姫は頭を垂れると、すくと立ち上がって、打掛の裾を翻した。https://www.easycorp.com.hk/blog/%e7%94%9a%e9%ba%bc%e6%98%af%e5%85%ac%e5%8f%b8%e8%a8%bb%e5%86%8a%e8%ad%89%e6%98%8e%e6%9b%b8-ci%ef%bc%9f%e4%bc%81%e6%a5%ad%e7%9a%84%e6%b3%95%e5%be%8b%e8%ba%ab%e4%bb%bd%e8%ad%89/
「……勝介が申していた通り、見事な死に様であった」
細く凛とした声が、室内の冷たい空気を震わせた。
濃姫は肩を竦めるようにして小さく振り返る。
信長は先程と同じ体勢のままであったが、目だけは確りと見開いていた。
「爺は空の部屋の中…白い死装束の姿で、割腹しておったわ」
「─!?」
「血に染まった両の手を、腹に突き刺した刀に添えたまま、まるで赤子のように手足を縮め…横倒れしておった。
己の血で畳が汚れるのを気にしてか、奴(きゃつ)め、足下にわざわざ濃色の敷物まで用意しておってのう。
最後の最後まで、几帳面な爺らしいと思ったわ…ははは」
濃姫が今まで聞いてきた中で、それは最も悲しい笑い声だった。
「五郎右衛門ら、政秀の愚息共は“狂死じゃ”“気患いが高じての自刃じゃ”などと申しておったが、
あの確り者の爺が気患いなど有り得ぬ。それほどに精神の弱い奴ならば、この儂に二十年もの長の年月(としつき)仕える事など出来まい」
信長の言葉を聞きながら、濃姫も「確かに」と頷き、再びその場に膝を折った。
「まことに狂死ならば、左様な遺言をしたためられる訳がなかろう」
「 ? …左様な遺言とは…」
姫は訊き返しながら、思わずハッとなって片手に握り締めていた書状の切れ端を眺めた。
“もしや”と思い、濃姫がその切れ端を目前の畳の上に広げ、一枚一枚繋ぎ合わせてゆく。
勘は図に当たっていた。
細やかな書体で綴られたその書状は、まさに亡き政秀の手による物である。
濃姫は手燭の薄明かりのもと、目を凝らしながら、彼の遺言状らしきその切れの文字たちを、半ば解読するように読み進めた。
前触れもなき自刃への詫びから始まるその書状には、自らのこれまでの人生、家族の事、
また織田家の人々への謝罪と感謝の念などがつらつらと綴られており、遺言状と言うよりは遺書に近い物であった。
唯一末尾に『 信長様、良き主君におなり下さいませ 』と書かれている以外は、遺言らしい言葉は何もなかった。
自刃の詳しい理由も書かれていなければ、五郎右衛門との不和や駿馬献上の件についても書かれてはいなかったのである。
「ほんに…爺は可笑しな奴であろう? 最後くらい、義理や建前は捨てて『殿に無理難題を強いられて難儀した』だの、
『殿をお怨み申す』だの、素直に心の声を綴っておれば良いものを。……どこまでも謙虚な奴よ」
信長は悲しみが濃く浮かぶ顔に、ふっと薄ら笑いを浮かべると、遣る瀬無さそうに溜め息を吐いた。
だが暫くすると、信長はふいに下唇を震わせて、目元を掌(てのひら)で覆った。
濃姫は一瞬、鬼の目にも涙かと思ったが、覆われた彼の目元から滴が零れることはなかった。
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