「御意にございます」
「御意にございます」
「しかし何故であろうか?そのまま攻撃を続けていれば、当然攻め滅ぼす事も可能であったろうに…。」
信長らしくない選択をしたものだと、濃姫が訝し気に眉根を寄せていると
「既に日が暮れ始めていたという事もありまするが、今川勢と同じ分だけ、織田勢も多くの死者や負傷者が出ていたからにございます」
三保野は虚ろな目をして答えた。【生髮藥】胡亂服用保康絲副廠,可致嚴重副作用! -【生髮藥】胡亂服用保康絲副廠,可致嚴重副作用! -
「同じ分だけとは──織田勢の死者や負傷者は、如何ほど出たのじゃ…?」
「山が出来るが如く」
濃姫は心ともなく竦然となる。
あえて明確に数に表さなかったところが、姫に、織田軍勝利の為に払った代償の大きさを犇と感じさせていた。
「御小姓衆のお歴々も数多く討ち死になされたそうで、それこそ目も当てられぬ有り様だったと聞き及びまする」
「……」
「殿は本陣に帰られてより、家臣の方々の働きや、多数の負傷者、死者のことなどを色々と話され、
『この者も死んだのか』『あいつもか』と呟きながら、感涙を流されたそうにございます」
「……痛ましいのう」
「…はい」
濃姫は憂いの濃く浮かぶ顔を軽く俯けると、まるで合掌するかのように、双眼をゆっくりと伏せていった。
主君の為、武功を上げる為。
そして自らの両親や妻子を守る為に、命をかけて戦い、散っていった男たち…。
その一人一人の名は残らずとも、彼らの働きのおかげで、この尾張の平穏と愛する夫の命がある。
濃姫は死者たちへの哀悼の意と、言葉には言い尽くせぬ感謝の思いとを、長い長い黙祷をもって示しているのであった。
そして同日の申の刻。
今川勢を見事駿河へ押し返した信長は、此度の戦で裏切りに及んだ寺本城を攻め、
手勢を派遣して城下に火を放った後、無事に那古野城へと帰還した。
「殿のお戻りにございます!殿のお戻りにございます!」
下女たちが奥御殿の長廊下を足早に進みながら、高らかに触れ回る声を耳にするなり、
濃姫は瞬時に晴れやかな微笑を浮かべて、そそくさと表玄関へと駆けて行った。
戦勝を祝う、緋地一面に吉祥の折り鶴が舞う総柄の打掛(うちかけ)を纏った姫は、
その背後に三保野ら侍女たち、千代山ら老女衆を従えて、帰還した泥まみれの信長を一礼の姿勢で出迎えた。
「…今帰ったぞ、濃」
「ご無事のお戻り、心より喜び申し上げます。此度の勝ち戦、殿におかれましては誠に──」
「一日じゃ!」
姫の口上を信長の溌剌とした声が遮った。
「僅か一日で、あの今川勢を駿河へ叩き戻してやったぞ! どうしゃ濃、今川など恐おうはないと言った儂の言葉は偽りではなかったであろう?」
「まあ─」
意気揚々と告げる夫の前で、姫は思わず含み笑いを漏らす。
「でしたら殿、私が申し上げた言葉とて、偽りではなかったでしょう?」
「ん?」
「“父上様は一度お認めになられた者を裏切るような真似は致さぬ” ──この言葉通りになりましたでしょう?」
「おっ……ははは、確かにその通りじゃのう」
「今川勢との戦は殿の勝ち。殿との口論戦はお濃の勝ちにございますな」
濃姫が得意顔で言うと、信長はふっと鼻で笑った。
Comments
Post a Comment