喜平次は全てを悟ったのか
喜平次は全てを悟ったのか、思わず茫然となって、深く首肯する道三の顔を力なく見つめた。
『忘れてはならぬ。義龍は間違いなくそちたちの兄じゃ』
『……』
『そして、この斎藤道三が己の後継者と認める唯一の息子じゃ』
───…
三保野はそこまで読んでようやく、安堵にも似た暖かな微笑を漏らすに至った。
濃姫も長年の胸のつかえが下りたような爽快さで、三保野から再び文を預かると
「父上様は名うての策士じゃ。例え馬鹿馬鹿しき噂であろうとも、利用出来ると思えば徹底して利用するお方です。
兄上をあえて土岐氏の御子とする事で、土岐氏寄りの家臣たちや、父上様に怨みを抱いている者たちの手から、兄上を守ろうと致したのやも知れぬな」
「例えご自分が、実の父ではないと…そう思われてもですか?」
三保野が静かに伺うと、濃姫は朗らかに微笑(わら)った。
「親というものはすべからく、我が子の為ならば己の誇りも、命すらも投げ出せるものと聞きまする。
ましてや“蝮の道三”と恐れられた肝の太き父上様のこと、実父か否かの問題くらいで心を痛めたりはなさるまい」
「……お気付きになられるでしょうか?」
「何がじゃ」
「そこまでなされる大殿様のお気持ちに、果たして義龍様は、気付く事が出来ますでしょうか?」
その懸念は濃姫も同様だったのか、明確な答えは返さず「そうよのう」と相槌を打つように呟いた。
「あまりにも遠回しな意思表示は、思わぬ争いを生みそうで、何やら恐ろしゅうございます」
やや青白ろんだ顔を深刻そうに歪めながら、三保野は悪い予感を振り払うように、小さくかぶりを振った。
「そなたの不安は分かるが、尾張にいる我らが左様な事を心配しても致し方なかろう」
「…姫様」
「今はただ、兄上を信じるしかあるまい」
姫は小さく顔を俯けると、手にしていた文の文末にさりげなく目をやった。
《 清洲の城へお移りになられ、何かとご多忙の帰蝶様へかような仕儀をお伝え申す事は、娘に更なる心労かける事に他ならぬと、
小見の方様よりきつう止められましたが、ご親族の絆を何よりも大事と思し召される帰蝶様に、このままお伝えせぬのはあまりにも心苦しく、
此度 私の一存にて文をお送り致した次第にございます。何卒、斎藤家に長年仕えおります者の忠義心の表れとお思い召され、この度の無礼をお許しいただきたく存じます 》
「──笠松殿にも、いつかこの文の礼をせねばならぬな」
濃姫の白い細面に、暖かな桜色の笑みが広がっていた。
──笠松からの文が届いてから、幾日も経たぬ日の深夜。
清洲城・奥御殿の夫婦の寝所には、白い夜具の上に寄り添い合うようにして眠る濃姫と信長の、仲睦まじげな姿があった。
しかし冷える時分である為か、信長は妻の身体で暖を取るように、何度も何度も濃姫を強く掻き抱いていた。
その度に濃姫は寝苦しさを感じて目を覚まし、夫の腕を慎重に退けるのだが、数分もすると、また茨の枝のように絡み付ついて来る。
これが何度となく繰り返されるものだから、さすがの濃姫も嫌になって「もう…」と溜息混じりに呟くと、上半身を起こして、寝ている夫の顔を眺めた。
正直に言ってしまうと、無防備な信長の寝顔は起きている時よりもずっと美しかった。
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